※今回は、自分の気持ちをそのまま文章にできるように「ですます調」ではありません。
ブログを書く、SNSに投稿する、これらは「文章を書く」といいう行為だが、反応がないと不安に思うことがある。
多分、たくさんの人が「反応がない」ことに対して「虚無感」を感じたことがあるだろう。
まず「文章」は他人が読んで初めて価値があるもの。
「文章」つまり「言葉」とは、人に伝えるために存在している。
それに対して反応がないことは、実社会で言えば「無視されている」ようなもの。
たとえその舞台がネット上だとしても、自分が発した言葉に対して反応がないと多少なり傷つくこともあって当然だ。
ブログを商用目的でなく「日記」の変わりとして使っていた人でも、ネットという不特定多数の人間が見られる環境にあれば、そこに社会性を感じて「無視された」ようなむなしさを感じたくはないはずだ。
僕もこれまでたくさんの文章を書いてきたが、こういった「虚無感」を感じることは少なくなかった。
ときに反応があるブログに対して「嫉妬心」を抱くこともあり、それで対抗心を燃やせるならまだしも、自信を失って「発信する気力」すら失いそうになってしまうこともある。
反応がない文章は嫌われているのか?
反応がない日記と反応があるブログでは、文章力に決定的な違いがあるかというとそうではない。
もちろん、読みづらい文章は嫌われるし、読みやすい文章は好まれる。
そのことをよく理解している人は、発信するときに「常に読み手目線」で書いている。
反応がない文章を書いているということは、それだけ読み手が共感や興味を惹かれない、つまり「つまらない」と思われている可能性が高い。
書いた文章を「嫌い」と思う人がいたら、攻撃をしてくることがある。
自分が書いた文章の正当性を「否定して論破したい」という欲求を持った批評家気質の連中はどこにでもいて、標的をみつけて「集団攻撃」することがある。
SNSやブログでこれが起こることを「炎上」と言うのは、広く認知されているだろう。
だけど、その「反応すらない」という場合は、嫌われていることには当てはまらない。
良いとも悪いとも思われない「つまらない」という状況が「反応がない」という状況なのだと判断するのが一般的な考え方だ。
だけど「反応がない」のは「つまらない」からとは限らない。
ネットと対面の違い
人間が話をすると、少なくとも目の前にいる人は話を聞いてくれる。
だけど、ネット上に散乱する情報の中で文章を読んだとき「誰かが書いたもの」とはみなさず、機械的に判断することがある。
私も知人のブログやSNSを覗かない限り、書いてある文章は「ただの言葉」でしかなく、そこに人間味を感じて書いた人の想いを読み取ろうなどとは思わない。
僕が書いた文章を誰かが読んだとき、同じように機械的に判断されるのだろう。
つまり、僕がネット上で書いている文章は、知らず知らずのうちに機械が書いたような感覚で読まれている。
僕が面白かった小説を読んだとき「作者がどんな人かを想像すらしない」ように、文章はあたかも小説を人工知能が書いたかのような扱いを受けやすい。
だけど、そう考えるとウェブ上で「無視される」ことに過剰反応する必要はないのかもしれない。
発した言葉が無視されるのは、自分を否定されているような感覚になる。
だけど、読み手が「機械としか思っていない」のであれば、反応がないけど真面目に読んでいる状況も考えられる。
反応がない、嫌われそう、傷つきそう、そんな思いから「発信するのが怖い」という感覚に襲われたとき、文章に対して「反応がない」ことを割り切ってみるといい。
機械的に読まれることの利点
読み手が「人間が書いた文章」を読んでいる感覚ではなく、無意識に「図鑑や専門書」を機械的に読んでいるのであれば、反応がなくとも「非常に大きな影響を与える」ことに成功をしているのだ。
これは、アフィリエイトにとっては最高の反応である。
アフィリエイトで人の心を動かす文章は、誰かを感動させるような文章とは少し違う。
ネットショップでモノを「購入したい」と思うとき、どんな気持ちになっているか、少し考えてみて欲しい。
「商品情報」や「商品説明」を見たとき、その文章について「誰が書いたんだろう」なんて考えたことがあるだろうか?
僕は、これまでたくさんのモノを買ってきたが、誰が作ったのかについて考えたことすらない。
今日食べるコンビニの弁当やオニギリだけでなく、これまで何100、何1000回と買い物をしてきて、それを生み出した人が「どんな人だったか?」なんてどうでも良かった。
【反応がない文章=影響力がない文章】とは、一概には言えない。
自分を「キャラクター」として売り出すスタイルなら、反応は非常に大切なことだが「商品やサービス」がメインなら、そこに人間性は必要ない。